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2024年6月10日

映画「ゲバルトの杜〜彼は早稲田で死んだ〜」のエンドロールに、元編集編成局長、小川一さんの名前が

 2024年5月下旬公開の代島治彦監督の映画「ゲバルトの杜〜彼は早稲田で死んだ〜」のエンドロールには私の名前が流れます。全共闘運動、三里塚闘争、羽田闘争、内ゲバと1970年代の学生運動の時代を生きた人たちを追い続ける代島監督の最新作です。代島監督と私は同じ昭和33年の戌年生まれ。同い年のおじさん同士、不思議な縁で知り合い、それ以来、誠に微力ながら制作活動を応援しています。出会いとつながりは、いつも偶然のようでもあり、運命のようでもあり。代島監督との縁をたどりながら、人生の奥深さを改めて感じています。

 この映画は、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した樋田毅さんのノンフィクション「彼は早稲田で死んだ」をもとにつくられました。1972年11月に早稲田大学キャンパスで起きた川口大三郎さんリンチ殺害事件を描いたこの本は、すでに毎友会のサイトで堤哲さんや清水光雄さんらが記事にされており、ご存知の方も多いと思います。周知の既報で恐縮ですが、この本には若き日の社会部記者、小畑和彦さん(68年入社)が登場します。当時、早大生だった筆者の樋田さんは、小畑さんの取材を受けて感銘を受け、新聞記者を志望し、朝日新聞社に入るのです。

 その小畑さんと私が出会ったのは1985年4月、小畑さんが東京社会部から浦和支局に異動してきた時でした。私は記者5年生で、埼玉県警キャップを担当していました。この時の県警担当は、龍崎孝(84年入社、その後、政治部、TBSに移りモスクワ特派員、政治部長。現在は流通経済大学副学長)、小野博宣(85年入社、生活家庭部長、広告局長。現在は毎日企画サービス社長)、山田道子(85年入社、社会部・政治部、サンデー毎日編集長、夕刊編集部長。現在は毎日新聞客員編集委員)の三氏。支局長は加藤順一(62年入社)、次長は熊澤誠吾(65年入社)の両氏でした。

 小畑さんには「こんないい人が世の中にいるんだ」と何度も感激させられました。絶対に人の悪口は言わない、告げ口などするはずもなく、後輩思いで、仕事には愚直なまでに誠実。「妻には涙を見せないで 子どもに愚痴をきかせずに … 不器用だけれど しらけずに 純粋だけど 野暮じゃなく」。カラオケで河島英五さんの「時代遅れ」を歌う時は、いつも小畑さんを心に思い描いていました。

 小畑さん宅にもお邪魔しました。私の妻の小川節子(81年入社)と生まれたばかりの長男を連れてゆき抱っこしてもらいました。その抱っこの仕方がとても上手で新米の父親として感心したことを覚えています。後に小畑さんと妻節子は、日曜版編集部で上司と部下となり、節子は私の何十倍ものお世話になります。日曜版編集部時代、節子は小畑さんのおかげで国内外を自由に出張させてもらい、好きな記事を思う存分に書くことができました。連載をまとめ2冊の本も出せました。日曜版の取材で知り合った河島英五さんとは公私ともに交流し、節子が毎日カルチャーセンターに転勤になると、がんの闘病中にもかかわらず、大阪から駆け付けて講師を引き受けてくれました。今も感謝に堪えません。節子が書いた河島英五さんの追悼記事は、身内びいきではありますが、心のこもった言葉で綴られています。

毎日映画コンクールの授賞式(2018年2月)小川夫婦の間の二人が代島治彦さん(後)と山本ふみこさん(前)

 さて、代島監督との縁の話に移ります。代島監督のパートナーは、エッセイストの山本ふみこさんです。日曜朝のTBS番組「サンデー・モーニング」の通販生活のCMにも登場した女性です。毎日新聞の家庭面で2007年から16年までの9年間、コラムを執筆し、節子が担当だったことから家族ぐるみでお付き合いが始まり、代島監督と知り合いました。どちらの家庭も、お酒が大好きで、一晩でワインの空き瓶が10本以上並んだこともあります。代島監督は82年に博報堂に入社しましたが、映画への夢を追って退社し、苦労しながら映像作家としての地歩を固めていきます。2018年には「三里塚のイカロス」で毎日映画コンクールのドキュメンタリー映画賞を受賞しました。

 私の大学の後輩で、博報堂の役員をした男がいますが、彼は代島監督と同期入社でした。後輩は、代島監督の前作「きみが死んだあとで」について、その仕事をうらやむ一文をしたためています。まさに、私も含め60代半ばのおじさんたちは、代島監督のカッコいい生き方は羨望の的なのです。

 小畑和彦さんは67歳の若さで亡くなられました。私も小畑さんの享年に近づき、改めて早世の無念を思います。小畑さんを送る会は、私と浦和支局の1年後輩で社会部や科学部で活躍した柴田朗さん(82年入社)が幹事を務めました。学士会館を会場に、私が司会をしたのですが、名簿つくりや集金、支払いなど面倒な仕事はすべて柴田さんが引き受けてくれました。柴田さんも私と代島監督と同じ年ですが、2016年にがんで亡くなりました。57歳でした。あまりに若すぎました。

 代島監督については、熊谷通信部の隈元浩彦記者(85年入社)が「24色のペン」で書いています。

https://mainichi.jp/articles/20240430/k00/00m/040/144000c

 代島監督は都内から熊谷市の実家に転居し、映画製作と農業の没頭する日々です。隈元記者は、私が警視庁サブキャップの時の捜査一課担当仕切りでした。あのオウム事件を一緒に戦った戦友です。熊谷では、代島監督と深く交流していると聞きます。多分、私の悪口を肴に酒を酌み交わしているのでしょう。まあ、許すことにしましょうか。

(小川 一)