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2024年8月20日

パリ五輪フェンシング活躍の源流に東日印刷元社長、奈良泰夫さん

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 パリ五輪でフェンシングの選手が大活躍。個人・団体で金メダル2、銀1、銅2を獲得した。

 50年入社で、東日印刷の社長・会長を8年務めた奈良泰夫さん(2012年逝去、86歳)は、戦後入学した明治大学のフェンシング部選手として活躍、1948(昭和23)年と49(昭和24)年、2年連続して関東学生フェンシング選手権大会のフルーレ個人で優勝している。明治大学フェンシング部史に「戦後の第一次黄金時代の“中興の四闘士”のひとり」と紹介されている。フェンサーだったのである。

 奈良さんは陸軍士官学校(陸士)第59期生。同期生に牧内節男さん(元スポニチ社長・会長)、社会部の事件記者・消防記者で鳴らした開真さん(早大卒、毎日新聞退職後、東日印刷で新入社員教育の先生もやっていた)、梶山静六元衆議院議員らがいた。

 陸士59期は、1943(昭和18)年4月入校。2年後、45年8月の敗戦で、卒業がかなわなかった。軍隊の位は「軍曹」である。

 一期上の58期生までは職業軍人としてパージされた。「59期は、戦後就職する際、恵まれた」と牧内さんのブログ「銀座一丁目新聞」にある。牧内さんは東京本社編集局長を務めたが、その後任の編集局長は陸士57期、2年先輩の陸軍中尉、細島泉さん(2012年没88歳)だった。細島さんは52入社で、毎日新聞では49入社の牧内さんの後輩だった。

 話を戻して、奈良さんは明大法学部に進学、剣道はGHQ(連合国軍総司令部)から禁止されていたため、フェンシング部に入ったと思われる。

 1950(昭和25)年明大を卒業して、毎日新聞に入社した。

 奈良さんは、日本新聞協会が発行する「新聞研究」に数々の寄稿をしているが、運動部時代に「初代ゴルフ記者」だったことを自慢している。

 竹節作太運動部長(1928年サンモリッツ冬季五輪に出場したスキー選手。マナスル登山隊員)から関東プロ月例会の案内状を渡された。52(昭和27)年のことである。

 当時の東西の運動部員を書き残している。

 小野三千麿(野球)小川正太郎(同)南部忠平(陸上)大島鎌吉(同)福田雅之助(テニス)相馬基(相撲)伊集院浩(ラグビー)北野孟郎(同)葉室鉄夫(水泳)。

 野球殿堂入り2人、五輪メダリスト3人、ラグビー日本代表のキャップ所有者2人…。

 ゴルフは決してうまくなかった。プレーが慎重で、ショットに時間がかかった。しかし、マナーやルールにはうるさかった。「トラさん、中村寅吉プロに教えてもらった」と言っていた。

 経営の才を発揮するのは、1975年青森で東日オフセット印刷工場(現㈱東日オフセット)を立ち上げたことから。毎日新聞でオフセット印刷の初めだった。その功績が認められて役員待遇で別会社だった北海道発行所の代表となり、北海道支社長→取締役技術担当技術開発室長→中部本社代表。常務で退任したあとパレスサイドビル代取専務。そして88年12月、東日印刷社長に就任した。

 東日印刷の新社屋STビルが、越中島に完成したのが同年7月。その4か月後に和田凖一社長が逝去され、後任社長に抜擢された。和田さんが兼務していたスポニチ社長に西部本社代表、牧内節男さんが就いた。陸士59期生が同じビルの5階と6階にいたのだ。

 奈良さんは、陸士59期について「戦後の産業界は勿論、官界、政界、法曹界、医学界、教育界など中央、地方のあらゆる分野に散って、再建日本の50年を支えてきた」(「陸修偕行社機関誌」1999年12月号)と述懐している。

 国会図書館のデジタル資料で調べると、陸士59期の各地方の会の世話人として奈良さんの名前が出てくる。勤務した秋田支局、青森、北海道、名古屋、それに自宅のあった千葉県。同期の会の横のつながりが奈良さんを支えていたような気がする。

 65入社の赤松徳禎さん(85歳)は、青森の東日オフセットで機械が故障した時、奈良さんから連絡があって、東京本社の技術(電気)担当者として対応したのがきっかけで付き合いが始まり、のちに東日印刷総務部長で仕えた。

 「奈良さんはもともと剣道でしたよ。フェンシングのチャンピオンだったことも聞いてはいましたが。東日印刷で記憶に残っているのは、『工場が四角く見えるのは、整理整頓が行き届いている工場。ウチのB1を見て下さい』とよく自慢していました」

(堤  哲)