2025年6月30日
広島原爆資料館入口の「被爆少女」の写真は大毎写真部員撮影

中央の少女の写真(当時10歳)が、広島平和記念資料館(原爆資料館)の本館入口に展示されている。原爆投下3日後の1945年8月9日、毎日新聞大阪本社写真部国平幸男さん(当時28歳)が撮影した。
少女の身元が分かったのは、72年後の2017年末だった。その前年、この写真が毎日新聞のサイトに掲載され、面影がガンのため42歳で亡くなった母「幸子(ゆきこ)さん」に似ていたことから、当時高2の長男哲伸さんが申し出、科学的な鑑定から証明された。そして2019年4月にリニューアルオープンした原爆資料館本館入口の展示となった。
左端でマイクを持っているのが、藤井哲伸さん(65歳)。東京都写真美術館で開催中の被爆80年企画展「ヒロシマ1945」の一環として28日行われたトークイベント「母は被爆少女だった」で、ともに広島生まれの毎日新聞広島支局専門記者・宇城昇さん(54歳)と話を進めた。


宇城記者は、94年入社。広島支局で記者、次長、支局長。今春から専門記者として原爆を追い続ける。「幸子さん」身元判明は、2018年1月26日付朝刊1面で毎日新聞が特ダネ報道したが、その時は大阪社会部のデスクだった。
このトークイベントに合わせ、「戦後80年」のワッペンを付けた宇城記者の署名記事が28日付け東京紙面に掲載された。「原爆の痕 歩いた記者は」の見出しで、原爆投下の3日後、国平カメラマンが大阪社会部の西尾彪夫記者とともに広島に着き、撮影した写真から国平カメラマンが撮影したポイントを地図で紹介している。

「焼け跡に立つ少女」を撮影した時のことを国平カメラマンは回想記(95年7月25日大阪本社夕刊)にこう書いた、と記事にある。
《焼け跡を1人で歩いていた少女はうつろなまなざしで、話しかけても答えない。おにぎりを一つ渡すと初めて笑みを浮かべ、「頑張るんだぞ」と頭をなでて別れた——》
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毎日新聞広島支局は原爆ドーム近くの爆心地から南へ290㍍の至近距離だった。「木造2階建ての建物は強烈な爆風と猛火に襲われて土台しか残らなかった。支局に泊まり込んでいた山口勝清記者(当時40歳)は即死とみられる」。
広島を離れていた有沢和夫記者は、9日に戻って「夢中であたりを掘った。しかし、いくら掘っても同僚の骨は拾えなかった」と、のちにOB記者の目に書いた。
重富芳衛記者は、頭に裂傷を負って、夫人とともに隣町へ逃げた。被害の一報を警察署の電話を借りて原稿の送稿を依頼したが、大阪本社に届いた記録はない、と記事にある。重富記者は1961年、被爆16年後に原爆症で亡くなった。53歳だった。
支局長は坂田勝郎さんだった。所用で広島を離れていて8日朝に帰り着いた、と記事にある。のち毎日新聞常務取締役大阪本社代表、毎日放送(MBS)元社長・会長。坂田記念ジャーナリズム賞を創設する。1990年逝去、85歳。
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国平カメラマンは、原爆投下から2年後の47年7月、大阪社会部の大森実記者とともに広島を取材している。『ヒロシマの緑の芽』(世界文学社1949刊)として出版されている。
このことは、この毎友会HPに書いた。https://www.maiyukai.com/essay/20240805
国平さんは2009年逝去、92歳だった。
(堤 哲)
被爆80年企画展「ヒロシマ1945」は東京都写真美術館で8月17日まで。
横浜の日本新聞協会ニュースパークで開催中の毎日新聞主催「報道写真を読む」展は8月31日まで。