2025年7月11日
パリで藤田嗣治を撮った写真部阿部徹雄さん

オカッパ頭に丸メガネ、口元の髭と奇抜なファッション、そして傍らには猫――。エコール・ド・パリを代表する画家藤田嗣治(1886~1968)は、旅先のあらゆる景色や人々にレンズを向け、その姿を記録したという。フジタの芸術を「写真」をキーワードに再考する「藤田嗣治 絵画と写真」展が、東京駅北口「東京ステーションギャラリー」で開かれている。8月31日まで。
戦後、パリのアトリエで嗣治の写真を撮ったカメラマンに、元毎日新聞写真部の阿部徹雄さん(2007年没93歳)がいる。戦時中、広東支局(三原信一支局長)勤務。陸軍省から派遣された嗣治と山口蓬春を2週間戦跡案内、嗣治から柳行李一竿の持ち帰りを頼まれたという。その縁が活かされたのか。

阿部さんは、1952(昭和27)年10月、パリのアトリエを訪問して10年ぶりに嗣治と再会、モノクロとカラーで撮影した。「カラー写真では藤田が赤い帽子をかぶっている」「カラーを意識した藤田自身の演出である」と図録の解説にある。著作権の関係で、残念ながらこの写真は掲載できない。展覧会で見て下さい。
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阿部さんは東京高等工芸学校(現千葉大工学部)を卒業して、36(昭和11)年入社。「印刷こそ文化」と印刷局を希望して配属されたが、「徒弟制度に嫌気がさして」写真部へ。
1939年11月~42年7月広東支局。44年1月から11月まで海軍の報道班員としてセレベス島を拠点に海軍航空隊の基地を巡った。その後、自身も応召されて陸軍二等兵となり、北海道で飛行場建設に従事した。
戦後、サン写真新聞が1946年4月19日に創刊されるが、写真部からの第一陣として初代写真部長木村謙二、片桐幸、岩本重雄さんとともに送り込まれた。
阿部さんは、イタリア人宣教師・タシナリ神父が始めた戦災孤児などの恵まれない子どもたちの東京サレジオ学園を取材、サン写真新聞や毎日小学生新聞で報じた。孤児らの身元が判明するなど大きな反響を呼んだ。
阿部さんは、1950年にサン写真新聞の第3代写真部長となるが、タシナリ神父から誘われて1952年7月から4か月、イタリア、フランスなどヨーロッパへ取材旅行をした。休暇をとって、自費で、だった。マティスやヴェラマンクのアトリエも訪ね、嗣治のところは3回も訪ねている。
どんな写真を撮っていたか。毎日フォトバンクで「阿部徹雄コレクション」を見て下さい。1182枚もファイルされています。
「カメラマンも記事を書けるように」と自らに課していた。サン写真新聞のあと、1954年創刊の「カメラ毎日」に移り、64年に50歳で退職した。
その後、2007年6月15日に93歳で亡くなるまで、ジャーナリスト活動を続けた。
以下に主な著作——。
『パリ・ローマ 欧州カメラ紀行』(毎日新聞社1954年刊)
『芸術の都 欧州カメラ紀行』(新潮社1956年刊)
『現代の造形 ヨーロッパの芸術家たち』(毎日新聞社1959年刊)
『ヨーロッパへの船旅』トラベル・シリーズ(秋元書房1961年刊)
『聖地パレスチナ』(求竜堂1967年刊)
『印刷界見学世界一周』(印刷学会出版部1969年刊)
『写真に生きる ある報道人の遍歴』(玉川大学出版部1976年刊)
『日本に生きるドン・タシナリ』東書選書(東京書籍1984年刊)
『南海の海鷲たち 南西方面の日本海軍航空隊』(大日本絵画2014年刊)
『1952年のマティス、ヴラマンクそしてフジタ』第2版(阿部力編2019年刊)
(堤 哲)