2019年4月2日
広島カープの初代監督石本秀一(野球殿堂入り)は毎日新聞OB
――これは以前この欄に書いた記事の見出しだが、西本恵著『日本野球をつくった男――石本秀一出伝』(講談社2018年11月刊)を書店で見つけた。
本文578ページ。厚さが4cm近くもある分厚い本だ。タテ18.6cm×ヨコ13cm。B6判をひと回り大きくしたサイズ。定価2300円。
石本秀一(1897~1982)は、広島商業の投手として、現在の夏の甲子園大会の第2回、第3回に連続出場した。1916、17(大正5~6)年である。
慶大を受験。その先が不明で、関学大を1年で中退し満州に渡る。三井物産に勤務し、満州の早慶戦・大連実業対満鉄戦(実満戦)で活躍。地元大連商のコーチをして、夏の全国大会に2回出場させている。1921(大正10)年は初出場でベスト4に食い込だ。
1923(大正12)年9月、故郷に帰って、毎日新聞広島支局員となる。25歳だった、とこの本にある。
――毎日新聞広島支局は、広島市の中心街である紙屋町の交差点の角にあった。支局員は5人程度。石本は税務署や商工会議所、師団司令部などを担当した。
野球やサッカーをはじめ、柔道や剣道などの試合も取材した。石本は「2人前ほど働いたような気がします」と語っている。
「みるみるうちに敏腕記者として成長していった」と書かれている。
石本本人は「広島で起こった贈収賄事件のてがかりをつかんだのが大手柄だった」と語っているとし、著者は「時代を見抜く、するどい眼力をもつようになった」と記している。
記者をしながら広島商野球部のコーチ・監督をして、1929、30(昭和4~5)年に夏の甲子園大会2連覇。さらに31(昭和6)年春のセンバツで優勝、そのご褒美で鶴岡(旧姓・山本)一人選手(野球殿堂入り)らのメンバーでアメリカ遠征をした。
石本は、アメリカ報告を毎日新聞広島版に連載、それを元に『広商黄金時代』(1931(昭和6)年大毎広島支局刊)を出版している。
伝説の「真剣刃渡り」は、その際の選手の精神統一法で取り入れたのだ。
――石本はオートバイを買って仕事と野球の両立をはかった。取材をして原稿を書いて、練習時間の午後3時ごろになれば、広島商業のグラウンドにかけつけた。
――広商の対外試合が終わると、指揮をとっていた石本は、事務室にやってきて支局に電話。原稿は下書きもなく、いきなり試合の記事をペラペラと送り、それが実に名文だったそうだ。
勧進帳で原稿を送っていた。
石本は、1936(昭和11)年、プロ野球大阪タイガース(現阪神)の監督に招かれ、毎日新聞記者を退職する。
打倒巨人! 翌37(昭和12)年秋のシーズンと、翌38(昭和13)年春に連続優勝した。
その後、名古屋金鯱軍2年―大洋―西鉄。戦後、結城―金星2軍―大陽ロビンスと、監督を転々とした。
そしてセ・パ2リーグとなった1950(昭和25)年、創設された市民球団広島カープの初代監督に就任する。
41勝 96敗 1分、勝率.299
カープは、セ・リーグ8チームの最下位に終わった。優勝した松竹ロビンスとは、59ゲームも差がついた。
シーズン途中で選手の給料が払えない事態に陥った。伝説の「樽募金」が始まった。こんな新聞記事が残っている。
身売りか解散か
カープに危機
《カープ全選手の給料支払いがすでに20日も遅配となり、そのため選手の留守家族から連日矢の催促が遠征先に舞い込み、ために選手の士気もとみに低下の一途をたどっている》=「日刊スポーツ」同年11月18日付。
「カープ女子」に、石本の苦労が分かってもらえるだろうか。
(堤 哲)