2021年8月8日
敗戦の8月15日に、後藤基治元MBS副社長の『開戦と新聞』発行
「本書は海軍の内幕を取材し、戦時報道に命をかけた記者による第一級のドキュメンタリーである」。元情報調査部副部長で静岡県立大学名誉教授の前坂俊之さん(77)が、序文の「本書に寄せて」に書いている。この本は2017年に出版された『海軍乙事件を追う』(毎日ワンズ)を再構成し、新原稿を増補した、と断り書きがあり、「付・提督座談会」の抜粋も収録されている。
後藤さんは「大阪毎日」社会部育ちで、海軍省を担当していた昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃・日米開戦をスクープした記者として知られる。その内幕は、「銀座一丁目新聞」に牧内節男さん(95)が記した追悼録に詳しい(別掲)。前坂さんも後藤さんの『日米開戦をスクープした男』(新人物文庫、2009年)に解説を書いており、スクープ紙面は現時点で見ても、世紀の特ダネと呼ぶにふさわしい。
後藤さんは戦後になっても、スクープのネタ元を明かさなかったが、1969(昭和44)年にフジテレビの「小川宏ショー」で28年ぶりに米内光政海軍大将の名前を明かした。「ニュースソースの秘匿、提供者の保護は新聞記者の第一の義務」と書いているが、開戦報道当時、新聞及び新聞記者は、新聞紙法、国家総動員法、軍機保護法などでがんじがらめに縛られ、軍事上の秘密漏洩には死刑も想定されていた。
特ダネ報道の後、後藤さんはフィリッピン・マニラの陸軍報道部などで仕事をした。著書には、海軍と陸軍の不毛の対立が描かれ、参謀長が捕虜となり対米戦略の最高軍機書類が米軍に渡った「海軍乙事件」についても、多くの証言で真相に迫っている。
敗戦の年に生まれ、現在76歳の筆者も、戦争の悲惨を肉声で語る著書を、重く受け止めることとなった。
(高尾 義彦)
『開戦と新聞 付・提督座談会』は毎日ワンズ刊。本体1,100円+税。
《牧内節男さんの「銀座一丁目新聞」2003年11月20日号「追悼録」から転載》
手元に「戦時報道に生きて」と言う後藤基治さんが著した本がある。後藤さんは私が毎日新聞東京本社で仕えた2代目の社会部長であった。当時48歳である。私より24歳の年上の部長は悠々として大人の風格があった。この本にも書いてあるのだが、若いときは特種記者であった。若い記者たちを食事に誘い出して良く話を聞いてくれた。今思えば仕事のしやすい雰囲気づくりに努力されたのだと思う。いい部長であった。
後藤さんといえば、昭和16年12月の開戦日の特種を取った事で有名である。同書によると、昭和16年11月12日午後2時ごろ、後藤記者は海軍大臣米内光政邸を訪問した(これが後藤記者の日課になっていた)。雑談しているうち米内さんがかたわらに置いた黒い鞄を取り上げ、何か書類を出しかけたが、ふとテーブルの上に置きざまに「ちょっと失敬する」と部屋から出て行った。その出しかけの書類を見た瞬間、後藤記者はそれが「読んでおけ」と言う意味だと理解できた。『米英、蘭印、泰』などの南方各地の国名とともに、武力発動は『12月初頭』というのが読めた。米内さんは戻ってくるなり、鞄を脇に押しやり『このなかには君たち記者が見たがっているものが入っているのだがそれを見せれば大将もコレだよ』と首をたたいてみせたという。だが新米の政治部記者のこの特種を、社の3人の有力幹部は『あーそうかね』で終わりであった。ことがことだけにニュースソースを教えるわけにはいかなかったそうだ。
後藤記者に陸軍のマレー作戦は12月8日と教えてくれた軍人がいた。後藤記者が支那事変で従軍したときからの知り合いで、久徳通夫中佐という陸軍航空気象草分けのベテランであった。陸軍砲工学校に設置された航空気象の専科(のちに陸軍気象部に変る)を恩賜の銀時計で卒業した経歴を持ち、昭和16年2月から9月末までバンコックに私服で潜入、現地の気象資料を半年にわたり収集した。気象原簿までコピーしたという。マレー半島の気象状況の分析の結果、統計上12月8日が「上陸可」とでたというのである。陸軍は開戦日を12月8日と決めたわけである。
さらに後藤記者は12月7日朝、海軍省の自動車部の運転手からこの朝、米内海軍大臣と永野修身軍令部総長が海軍と縁が深い明治神宮と東郷神社に参拝した事がわかった。『そうか、海軍もとうとうやるのだ』と後藤記者は思ったそうである。他の記者たちの情報とあわせた12月8日の朝刊は5段で『隠忍自重限界に達す、断乎駆逐あるのみ』と書きたて対米戦争開始をにおわせた。もちろんその前に開戦に供えて毎日の取材陣は香港10人、タイ15人、マレー半島10人、比島15人、蘭印25人、南支那26人。仏印25人とそれぞれ派遣された。
後藤記者は社会部長のあと毎日放送に移り、副社長までなられた。昭和48年7月死去された。享年71歳であった。
(柳 路夫)