新刊紹介

2022年7月19日

元論説委員長、倉重篤郎さんが『秘録 齋藤次郎 最後の大物官僚と戦後経済史』を上梓

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 このほど、『秘録 齋藤次郎 最後の大物官僚と戦後経済史』(光文社)を上梓しました。

 この国の財政規律というものの異様な劣化に、深い危機感を抱いたためです。国家予算は、60兆円の歳入(税収)しかないのに、100兆円を超える歳出を許し、残り40兆円を借金(国債発行)に頼るような予算を毎年平然と組んでいる。政府の財政赤字は、積もり積もってGDP比2・3倍と、欧米各国の中でも異様に突出しているのに、おかしい、という人が年々少なくなっています。MMT(現代貨幣理論)などとという、自国通貨である限りいくらでも借金はできる、という夢のまた夢のような議論まではびこっています。

 そんな時代のアンチテーゼとして、齋藤次郎という元大蔵(現財務)官僚の生き様をクローズアップさせてみたいと思いました。財政再建、財政健全化の鬼のような存在だったからです。消費増税に二度挑戦しています。一度は1994年の細川護熙政権で、小沢一郎と手を組み、国民福祉税を導入しようとし、失敗しています。

 二度目は、大蔵省退官後、福田康夫政権の時でした。これまた小沢一郎(当時は民主党代表)との連携で、自公与党政権と野党第一党の民主党政権が一緒になるという大連立構想を進めます。齋藤の狙いは、2005年に大連立を組んだドイツ・メルケル政権が、付加価値税引き上げ(日本で言えば消費増税)に成功したことにありました。日本でも安定政権が誕生すれば、国民の嫌がる増税も政治的に成し遂げることが可能と読んだのです。ところが、この二度目も失敗に終わりました。自民党側はその気になったのですが、足元の民主党側の了解が得られなかったためです。

 それにしても、齋藤はなぜかくまでして増税による財政規律の強化を求めたのか。そこには、齋藤の生まれ育った時代背景があるように思えました。

 齋藤は旧満州(中国・東北地区)で生まれ、敗戦と共に訪れた国家破綻の悲劇を外地で身をもって経験しています。普段はおくびにも出しませんが、敗戦後留め置かれた大陸ではソ連軍の暴虐に怯え、12歳で初めて祖国・日本の地を踏んだ後もひもじい日々を送り、中学校時代は「チャイナ」の仇名でいじめられた経験を持ちます。

 齋藤にとって、戦争とその結果としての国家破綻は、財政のあり方と深く結びついているようでした。1つは、軍部の強圧に財政当局が抗し切れず、青天井の軍事国債発行を許し、それが身の丈を超えて戦線を拡大、国家破綻一歩手前の状況にまで行ってしまったことです。もう1つは、軍事国債乱発の後始末としての、財産税の特別課税、預金封鎖・新円切り換え、という戦後の民衆を苦しめた混乱です。

 国家財政のガバナンスの失敗が戦争を暴走させ、そのツケをまた財政的措置で国民に転嫁する。財政の健全性を維持すること、つまり、財政民主主義による規律を徹底させることが、戦争抑止のためにも資源適正配分のためにも重要だという思想の持ち主なのです。こういった人の生き様を描くことは、今の世にもそれなりの意味があると思いました。

 齋藤とは、私が政治部から経済部に2年間移籍した際、財研クラブで、官房長だった齋藤の担当を命じられ、政治部方式で朝回りするうちに少しずつ親しくなった仲です。齋藤には、毎日新聞経済部にも私以外に親しい記者が何人かいました。その一人がロンドン特派員も務めた先輩の村田昭夫記者でした。いずれ、二人で齋藤の伝記を書こうと話していたのですが、彼は2013年食道がんで亡くなってしまいました。その後何とか齋藤から取材許可を得て、今回の出版になりました。この著を村田先輩にささげたいと思います。

(倉重 篤郎)

『秘録 齋藤次郎 最後の大物官僚と戦後経済史』は光文社刊、 1500円+税

※倉重 篤郎さんは1953年、東京都生まれ。78年東京大教育学部卒、毎日新聞入社、水戸、青森支局、整理、政治、経済部を経て、2004年政治部長、11年論説委員長、13年専門編集委員。