2022年8月16日
元大阪本社専門編集委員、斎藤清明さんが『今西錦司と自然』刊行
著者の斎藤さんは京大山岳部OBで大阪毎友会会員。高名な生態学者、登山家、探検家の今西錦司さんを中核とする京大探検グループに憧れ、今西さんの出身学科の農学部農林生物学科に入学した。年齢が離れすぎているので、学生時代に今西さんとは直接の師弟関係はない。ただ仰ぎ見る存在だったという。
京都支局勤務の頃、同じ学科、同じ山岳部出身というコネを使って、なんだかんだと取材にかこつけて押しかけ、「弟子入り」した。今西さんを深く畏敬し、これまでに今西さんに関する著作だけで編著・共著も含めるとなんと5冊に上る。
◇
今西さんの人生をこの本をもとに簡単におさらいすると、京都・西陣の織元の家に生まれて京都府立一中の頃から北山に登り始めた。この時の仲間に後の南極越冬隊長、西堀栄三郎さんらがいる。三高に進むと山岳部を作って本格的な登山活動にのめりこむ。
進学した京大でも、山岳部がなく「旅行部」しかなかったので「旅行部山岳班」というグループをつくって、黒部川源流域の雪中合宿、西堀さんらと北アルプス剣岳の最難関ルート経由での初登頂に成功、アルピニストとして知られるようになった。西堀さんが京大時代にアメリカ民謡に作詞した部歌が、やがて広く知られることになった「雪山讃歌」である。
その後の登山、探検は書けばきりがないが、毎日新聞社との関係で言えば、日本山岳会のマナスル初登頂(1956年)は戦後日本を勇気づけた快事の一つとして記憶に残る。元々、京大グループで今西さんらが計画していたものだが、日本山岳会全体の行事となり、毎日新聞社は全力を挙げて後援した。今西さんは登山ルートを調べるための事前の踏査隊隊長として、50歳にして6200メートルの地点に立った。
山や探検と研究と、どっちが本職かわからないくらいだが、今西さんと言えば若いときの「すみ分け理論」が有名だ。家の近くの鴨川で水生昆虫のカゲロウを調べていて、同じカゲロウの仲間でも種類ごとに別々に生息していることを見つけた。今や「すみわけ」は一般名詞としてあちこちで使われている。
今西さんの関心はさらにウマ、ニホンザル、チンパンジー、ゴリラの社会に向かい、アフリカで人類社会の起源を探った。フィールドを飛び回っている間、身分は26年間講師のまま。教授になったのは57歳だった。
愛知県犬山市のモンキーセンター、京大霊長類研究所の設立にも関わり、その近くの岐阜大学学長に迎えられたのが1967年、65歳になっていた。1979年文化勲章受章。
また山の話に戻ると、今西さんは晩年になっても登り続けた。1985年、奈良県川上村の白髭岳に登頂、これで登った山は1500山。83歳だった。この時の新聞記事は私も記憶している。筆者は斎藤さんだった。その後も85歳まで登り続け、さらに50山を加えた。
1992年死去、90歳。棺は若い人や親族に担がれ、北山を望む鴨川べりを歩いた。
ところで今西さんはずっと毎日新聞を愛読していたという。古い京都人は結構こういう人が多い。私が懇意にしてもらっていた元同志社総長の故Mさんもその一人で、「大毎さん」と呼ぶ優しい響きに一種の敬意が込められていた。今西さんの孫の拓人さんは毎日新聞に入社、京都支局長を務めた。
◇
この本は玉川大学出版部の発行。「日本の伝説 知のパイオニア」全12巻のうちの一冊で2750円。子供向けに今西さんが自分の口で自分を語る仕掛けになっており、斎藤さんはかなり苦労したらしい。どうしても斎藤さんの今西さんへの敬慕の念がにじみ出るから、「はじめに」で「じまん話が多くなるかもしれません」と断っているのはほほえましい。
斎藤さん自身のことで補足しておくと、ヒマラヤ、チベット、南極、北極などでも取材したフィールドワーカーで、毎日新聞を退職後は国立の大学共同利用機関、総合地球環境学研究所(国立、京都市)で教授・研究推進センター長として6年間勤務した。今西さんの山行きには計数十回は荷物担ぎ、酒担ぎとして同行したそうだ。今西さんの「(最後の)直弟子」を自負し、孫弟子を自認する山極寿一・前京大学長からもそう呼ばれているそうだ。
斎藤さんの登山も続いている。喜寿の今夏も南アルプスの上河内岳(2803メートル)に単独で登頂した。
(大阪毎友会会員・藤田 修二)
『今西錦司と自然』は玉川大学出版部発行、定価2,500円(税別)