2022年8月23日
全身マヒと声を失った元西部学芸課長、矢部明洋さんが映画評『平成ロードショー』を出版
西部本社の元学芸課長、矢部明洋さん(59)が、「平成ロードショー 全身マヒとなった記者の映画評1999~2014」(忘羊社)を出版した。現役時代に西部本社版に書いていた映画紹介コラムを厳選してまとめた。イラストは妻の「高倉美恵」さん。夫婦合作である。
「矢部くんが倒れた」。2014年11月10日、報道部長だった私(松藤)に連絡が入った。脳梗塞を起こして入院したという。すぐに病院へ駆けつけた。高倉さんと子供2人は比較的落ち着いているように見えたが、病状は深刻だった――。
同僚の矢部さんとは、年齢も近く、飲む機会も多かった。博覧強記の彼の話題の幅は広く、斜に構えた独特な見立てと関西弁に乗せた歯に衣着せぬ的確な指摘は、ユニークで憎めない。酒席では笑いが絶えない。こと映画評はたしかに群を抜いていて、私が見たこともない映画でも彼の言にかかると見てみたくなるような楽しみがあった。
その1年前の13年11月、報道部長が聞き手として長く西部紙面で連載していた直木賞作家の故・佐木隆三さんのインタビュー企画「事件簿」が突然終了する事態に陥った。その時に助けてくれたのが矢部さんである。共通の知人でもある直木賞作家の葉室麟さんと歴史上の人物を語る案を出して、自ら対談相手を買って出た。「ニッポンの肖像」と題した月1回の対談は、黒田官兵衛に始まり、宮本武蔵、坂本龍馬、北条政子などと続いた。
対談後、葉室さんを囲んでの酒席がなにより楽しかったこともあるだろう。時代作家の葉室さんと矢部さんは、作家論など文学のみならず、政治や国家論、メディアの在り方から、映画も含めた芸能娯楽、文学賞のウラ事情――と実に多彩で幅広い分野の話をした。まさに、矢部さんならではの仕事だった。
そんな脂が乗り切った矢部さんを突然、病が襲った。それでも希望はあった。全身マヒに加えて声も出せなくなったが、数か月後には意識や記憶などには問題がなく、以前のままであることが分かったのだ。情報のインプットもアウトプットも、目で見て、耳で聞き、透明の文字盤を使ってできるという。退院した矢部さんを見舞うたびに、葉室さんと話したのは、なんとか矢部さん夫婦と進学を控えた子供2人を含めた家族の支援ができないかということだった。
私は、矢部さんになにか書いてもらうことを提案したが、四肢は動かず声も出ない。一方で、元書店員の高倉さんは地方版にイラスト付きで「ちゃんとして母ちゃん!」というコラムを寄稿していた。そこで生まれたのが、現在も月2回のペースで続く「眼述記」である。文字盤を通じて闘病だけでなく、全身マヒの父親を抱えた家族のありのままの姿をつづっている。
それは矢部さんの文章でありながら、眼と思いやりを通じた夫婦のコミュニケーションの実情であり、全身全霊で寄り添い続ける高倉さんの介護の記録である。この間、高倉さん自身、2度のがん宣告を受け、それを克服した。子供たちもそれぞれ大学、高校へと進み、自立へと動いた家族の物語でもある。
葉室さんは対談の書籍化を提案してくれた。出版社の知己に連絡して「ニッポンの肖像」を「日本人の肖像」として再構成し、編集者に掛け合って著者名に「矢部明洋」のクレジットを併記してくれた。業界では異例のことだったと聞いた。
葉室さんは、彼が地方紙記者時代に、駆け出しだった私を陰に陽に気にかけてくれた大先輩だった。この本の出版だけでなく、著者クレジットに矢部さんの名前を入れた葉室さんのご配慮は、私自身のことのように思えて、感謝しかない。
葉室さんはこの本のまえがきの中で、こう書き記している。
「この本の前半は、毎日新聞西部本社学芸課長でデスクの矢部明洋氏との対談の形で進められました。わたしの雑駁な話が矢部氏の力によって整合性のあるものにまとめられていったというのが実感です。わたしの意見というより、矢部氏の理解力、構成力をもとにした『対話』であるということに意味があるのではないかと思っています。矢部氏は平成二十六(二〇一四)年十一月に脳梗塞と脳出血の病に倒れました。病状の詳しい説明は避けますが、最も活動的で雄弁な新聞記者がその能力を発揮できず、闘病を続けています。矢部氏が病に伏した後、学者の方々との対談を重ねさせていただきましたが、『対話』をするという基本は矢部氏のときから引き継いだものです。闘病中の矢部氏と彼の家族は明るくたくましいことも付け加えておきます。そのことに、わたしは生きる意味を教えられました。」
その葉室さんも2017年12月、帰らぬ人となった。享年66。いつもお見舞いにカステラを持参したとかで、子供たちは「カステラのおっちゃん」と呼んでいたという。
19年4月、矢部さんは新聞社を退職した。コロナ禍は3年目に入り、お見舞いもままならず時が流れていく。高倉さんから「矢部が映画のことを書きたがっています」と聞いていながら私は何もできないまま退いた。それだけに、矢部さんのこだわりの一つであった映画評を、夫婦自らの力で書籍化されたことを心からうれしく思う。そして敬意を表したい。
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