新刊紹介

2023年7月14日

イスラエル特派員などを経験した編集委員、大治朋子さんが『人を動かすナラティブ なぜ、あの「語り」に惑わされるのか』を刊行

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●私たちの日常を動かすナラティブ(物語)のメカニズムに迫る

 思えば私たちは生まれてからずっと、物語に囲まれて生きている。幼いころは親や兄弟姉妹の語り、童話から価値観や道徳観を学び、学校では先生や友達が語る物語に、働き始めると組織の上司や同僚の主張に耳を傾ける。まるでBGMのように常時流れてくるこうした物語は、良くも悪くも私たちの思考に大きな影響を及ぼす。

 英語でナラティブという表現がある。物語とか語り、ストーリー、筋立て(プロット)、言説などと訳される。幅広い物語性を含む言葉で、同じような意味を一言で表す日本語はない。

 信じるナラティブが陰謀論であれば私たちは分断され、憎悪を抱く。英雄伝説を信じるなら勇気と希望をもらうかもしれないが、自分だけが正義のヒーローだと思い込めば狂気の世界へと近づく。

 エルサレム特派員時代、イスラエル、パレスチナ双方の市民が、まるで心にカギがかかったように自らのナラティブを主張し合う姿を目の当たりにした。相手のナラティブは、聞いているようで聞いていない。他方で、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)・サバイバーたちが過酷な経験にも何らかの「意味」を見いだし、そこから人生物語を再構築して生きる力に換えていく姿も目にした。

 物語は私たちを分断することもあれば、希望と生きる力を与え、壁を壊し、人々をつなぐこともある。

 イスラエルの歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、「ホモ・サピエンスは物を語る動物」だと語った。いかなる人間、集団、国家にも「独自の物語や神話」があり、20世紀が提示したのはファシズムと共産主義、自由主義という「三つの壮大な物語」だという。

 ナラティブの力に魅せられた私は、そのメカニズムについて本格的な調査を始めた。

●「ナラティブは我々の脳が持つほとんど唯一の形式」

 「人間にとってナラティブとは何でしょうか」

 私の問いに、解剖学者の養老孟司さんはこう答えた。

 「ナラティブっていうのは、我々の脳が持っているほとんど唯一の形式じゃないかと思うんですね」

 人間は物語形式でものごとを理解し、記憶しているのだという。

 日本では近年、ローンオフェンダー(単独の攻撃者)による凶行が相次ぐ。人気映画「ジョーカー」の主人公の絶望ナラティブに魅せられたという孤独な若者の姿も浮かぶ。カルト教団のナラティブは相変わらず人々を魅了し、ポピュリズム政党のナラティブがダイナミックに有権者の群れを動かす。

 世界に目を向ければ、各地で陰謀論が火をふく。フェイクニュースを堂々と「オルタナティブ(別の見方の)・ナラティブ」と呼ぶ政治家らが続々と当選する。

 現代SNS社会においては、すべての人がナラティブの発信者であり受信者だ。その結果、私たちは滝のようなナラティブ・シャワーを、昼夜を通して浴びている。

 英情報分析企業ケンブリッジ・アナリティカ(CA)は心理学者らを雇い、特定の地域の人々に「刺さるナラティブ」を作らせ、アルゴリズムを駆使してSNSで効率良く拡散させる「情報兵器」を開発した。2016年の英国によるEU(欧州連合)離脱決定やトランプ米大統領誕生の背景には、彼らの「工作」がある。この企業の元研究部長に取材し、世論工作の具体的な手法を明かしてもらった。

 本書は国内外で近年顕著な現象をナラティブという観点から説き起こし、ナラティブが人を動かすメカニズムを心理学、脳神経科学など専門家の分析も交えて検証した。

(大治 朋子)

【本書のおもな内容(一部抜粋)】https://mainichibooks.com/books/social/post-625.html
第1章 SNSで暴れるナラティブ
●養老孟司さん「(ナラティブは)脳が持っているほとんど唯一の形式」 
●安倍晋三元首相銃撃件と小田急・京王線襲撃事件 
●インセルがはまる陰謀論ナラティブ 
●「ローンオフェンダー(単独の攻撃者)」「無敵の人」「強い犯罪者」の時代 
●岸田文雄首相襲撃未遂事件と現代型テロ 
●最強の被害者ナラティブ
第2章 ナラティブが持つ無限の力
●AIで「潜在的テロリスト」をあぶり出す 
●人間が生まれながらにして持つ「人生物語産生機能」 
●WBC栗山英樹監督が語った「物語」 
第3章 ナラティブ下克上時代
●伊藤詩織さんが破った沈黙 
●五ノ井里奈さんが突き崩した組織防衛の物語
●元2世信者、小川さゆりさんの語り 
●「選挙はストーリー」と語った安倍元首相の1人称政治 
第4章 SNS+ナラティブ=世界最大規模の心理操作
●ケンブリッジ・アナリティカ事件の告発者に聞く 
●狙われる「神経症的な傾向のある人」 
●情報戦を制す先制と繰り返し
●トランプ現象という怒りのポピュリズム 
●「日本は特に危ない」
●米国防総省の「ナラティブ洗脳ツール」開発 
●SNSを舞台とする「認知戦」へ
●中国の「制脳権」をめぐる闘いとティックトック 
第5章 脳神経科学から読み解くナラティブ
●幼少期の集中教育は何をもたらすのか
●向社会性が低いとカモにされやすい? 
●孤独な脳は人間への感受性を鈍化させる 
●陰謀論やフェイクニュースにだまされない「気づきの脳」 
第6章 ナラティブをめぐる営み
●保阪正康さんがつむぐ元日本兵の語り 
●柳田邦男さん「人は物語を生きている」
●ナラティブ・ジャーナリズムとは
●SNS時代の社会情動(非認知的)スキル

『人を動かすナラティブ なぜ、あの「語り」に惑わされるのか』は毎日新聞出版刊。定価2,200円(税込み)

大治 朋子さんの経歴(毎日新聞出版のホームページから)

 毎日新聞編集委員。1965年生まれ。『サンデー毎日』記者時代に「最強芸能プロダクションの闇」「少女売春」などをテーマに調査報道。社会部では防衛庁(当時)による個人情報不正使用に関するスクープで2002、2003年の新聞協会賞を2年連続受賞。ワシントン特派員として米陸軍への従軍取材などで「対テロ戦争」の暗部をえぐり2010年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。エルサレム特派員時代は暴力的過激主義の実態を調査報道した。英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所元客員研究員。イスラエル・ヘルツェリア学際研究所大学院(テロリズム・サイバーセキュリティ専攻)修了(Magna Cum Laude)。「国際テロ対策研究所(ICT)」研修生。テルアビブ大学大学院(危機・トラウマ学)修了(首席)。単著に『勝てないアメリカ─「対テロ戦争」の日常』(岩波新書)、『アメリカ・メディア・ウォーズ ジャーナリズムの現在地』(講談社現代新書)、『歪んだ正義「普通の人」がなぜ過激化するのか』(小社)など。