2024年3月28日
元中部本社代表・佐々木宏人さん ある新聞記者の歩み 34 世の中は騒然、冠婚葬祭代はかさむ 楽しむしかない! (広告局の巻第3回) 抜粋
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文は https://note.com/smenjo/n/n618fa8ec9fdb
広告局に在籍された5年間はバブル崩壊後のいわゆる「失われた30年」と重なり、広告営業冬の時代を意味します。しかも大災害阪神・淡路大震災が追い打ちをかけます。今回は広告局3回シリーズの最終回です。
目次
◆95年と言えば、震災、オウム、Windows95、インターネット---大事件続発
◆成功体験ののちの「失われた30年」
◆アメリカとの文化の違い
◆新聞広告のグレーゾーン
◆広告局は結婚式が多くてたいへん
◆鬼十則の電通今昔
◆孫正義さん、受賞式の涙のわけは?
◆新聞社の文化・スポーツ事業の意義とそれを支えた広告局
◆95年と言えば、震災、オウム、Windows95、インターネット---大事件続発
Q.佐々木さんが広告局に赴任したのが1993(平成5)年4月で、98(平成10)年までおよそ5年間広告局に在職されました。最初は広告局の企画開発本部長で、95(平成7)年には局長に就任されます。広告局があるのはパレスサイドビルの本社内ですよね?それは何階ですか?編集局とは別の階ですか?
2階にありました。編集局は4階、出版局、文化事業局は5階、販売局も2階で、役員室は5階でしたね。「あの件、5階がうるさいから、早くやっておけ」なんてよく言いましたよ。パレスサイドビルが出来たころ(1971(昭和46)年頃はビル全体が“毎日新聞社ビル”の感じでしたが、その後、新聞部数の落ち込みもあり、出版局は九段下に移ったりスペースを節約して一般会社も入れて、今は肩身の狭い思いをしてるんじゃないかな。
でもパレスサイドビルは毎日新聞が大株主。貸しビル業として、お堀端で地下鉄と直結しているしホント便利なビルですよね。特に、最初は小さな会社で「毎日コミュニケーション」といっていた「マイコミ」が、同業の「リクルート」と肩を並べるようになり、ビル全体に占めるオフィス面積の比率が高くなっています。その収益でだいぶ助かっているんじゃないかな。ぼくなんか口が悪いから「今や“マイコミ・ビル”だな」なんて悪口を言っていますけどね(笑)。
注)2005年4月、(株)パレスサイド・ビルディング(東京)、(株)毎日大阪会館、(株)毎日西部会館(北九州)、(株)毎日名古屋会館の4社が合併して株式会社毎日ビルディングが発足しました。(中略)
Q.広告局長に就任されましたね。
ぼくは基本的に楽しかったですね。ぼくは広告局長になるつもりもなかったし、そんなに自分で望んだポストでもなかったんですがね。だから、本当は企画開発本部長から論説に行ったりとかなんかっていうのはあったと思うんです。編集局の連中と酒飲んだときに、お前これからどうするんだって言われて、責められたことがあります。広告局長になるつもりか、論説室に行きたいのか、どっちなんだと、もうはっきり決めた方がいいぞとか言われて。まあ、論説より、広告の方が向いていると思われたんだろうね。
Q.局長になって、それまでと何か変わったことはありますか?
前の局長は石井国範さんといって、局長から役員会の広告担当の常務になられました。だから局長室は広告担当常務室になり、当方の席は大部屋の一角です。ぼくの女房の妹の亭主が、民営化されたばかりのJR東日本の役員をやっていたんだけど、「局長室ってすごいところに鎮座しているんだろう」と見に来たことがあるんです。ところが大きなフロワーの一角にチョコンとデスクがあるのでビックリしたようでした。
局長室には石井さんがデンと座っていました。でも石井さんは、本当に面白い人で、ぼくは好きでしたね。“瞬間湯沸かし器”と陰で局員が言っていましたが、飲むとぼくの目の前で若手に「オマエ、編集局の佐々木に局長のポストを取られて悔しくないのか、悔しかったらあの広告取ってコイ」なんて平気で言うんですから参いっちゃうんです(笑)。広告業界では有名人でしたね。
でも本当に広告一筋に生きてきた人で、スポンサー、代理店の付き合いなど本当に勉強になりました。最後は副社長までなられましたが、その後も、年に3、4回電通の元副社長、他社の元広告担当常務、大手飲料メーカーの担当者などと中野で飲み会をやっているんです。言いたい放題の「不適切にもほどがある」話ばかりで、ホント楽しい飲み会。今は毎日新聞のOB会の「毎友会」の会長をやられています。石井さん、最近目を悪くされて、心配しているんです。
(以下略)