元気で〜す

2024年9月26日

元中部本社代表・佐々木宏人さん ある新聞記者の歩み 36  新開設テレビ局へ勇躍転身、しかしそこで待ち構えていたのは・・・抜粋

聞き手はメディア研究者 校條諭さん
全文は https://note.com/smenjo/n/n900c249825b1

 元毎日新聞記者、佐々木宏人さんのオーラルヒストリーも終盤に。取締役一歩手前の役員待遇という名古屋の中部本社代表を最後に新聞社での生活を終えて、畑違いのテレビ局に移りました。しかし、荒海に乗り出した小舟のような戦いを強いられました。

目次
◆放送業という異文化の世界へ 定年で退職金をもらったものの
◆角川、電通、エイベックスなどからの若手混成部隊
◆テレビ局なのにまともな動画が流せない
◆テレビなのに名刺広告って?!
◆放送業界は、新聞で言えば、紙とインクを役所からもらうようなもの
◆時代はインターネットになだれを打って
◆ビックカメラが大株主のBS11がメガポート放送を吸収合併

◆放送業という異文化の世界へ 定年で退職金をもらったものの

Q.毎日新聞社を退職するのはいつですか?結局どのくらい勤めたことになりますか?

 メガポート放送に移った翌年、2001(平成13)年10月に定年退職しました。当時は「60才定年」だったんですねえ。東京オリンピックの翌年、大学を卒業して23歳で1965(昭和40)年4月に入社しましたが、還暦を迎えるまで36年半勤めたことになります。

Q.すごいですね。私なんか同じ会社にいちばん長く勤めたのが15年ですから(笑)。退職金は出たのですね?

 もちろん出たのですが、実は毎日新聞社内には「毎日信用組合」という信用組合法に基づく正式な金融機関があって、退職金を担保にかなり借金をしていたんですよ。子供4人をかかえて学費やらなんやら出費が多かったためです。その返済と相殺ですからねえ・・・。退職金の手取りを見て女房もガックリ来ていましたがね(笑)。

 当時、4人のうち上2人が東京で大学に在学していて、その下二人はまだ甲府の家で高校生、ぼくは東京に勤務にしていたという事情でしたからけっこう大変でしたよ。とはいえ、メガポート放送自体は、給料は毎日新聞の時と同じくらいで、月々のフローの意味ではなんとかだいじょうぶでした。

 それで、子供たちも学校に通わなきゃいけないから、 名古屋から東京に転勤してアパートを阿佐ヶ谷駅の近くに借りたんですよ。だから2世帯でホント大変でしたね。でもやっと甲府にいた子供も進学し家族全員東京に集まりました。一家そろって杉並の5LDKの二階建ての家を借りました。でも女房は子供も大きくなったので、あるカトリック系の学校の校長秘書になりました。

 最終的に4人の子供たちはみんな大学や美術系専門学校に行ったんだけども、普通“しし・じゅうろく”(4人×4年)で済むじゃないの。それが、みんな浪人や留年していて1年か2年ぐらい余計に行ったから、“しろく・にじゅうよん”(4人×6年間)くらいになって(笑)・・・。それだけじゃなくて、いったん入学金と1学期のお金も納めたのに、入った直後にこの大学じゃダメだってやめてしまって、 他の大学からやり直したりとか(笑)。学費を納める前にやめりゃいいのに、それから留年はするは。それはもう大変でしたよ。4人分ではなく6人分学費を払った感じです(笑) とにかく4人もいたから身が細るというか、もう女房には、頭上がりませんよ(笑)。

◆角川、電通、エイベックスなどからの若手混成部隊

Q.さて、2000(平成12)年2月に創設されるデジタル放送のメガポート放送に移って専務取締役に就任されるのですね。どんな事情ですか?

 まあ周辺は取締役で本社に戻ると思っていたでしょうね。事実、その前に当時の本社幹部から「次は本社に上がってもらうから」といわれたこともあり、自分でもその年の株主総会で取締役になるだろうという、思いはありましたね。

Q.毎日新聞が新設のデジタル放送に進出したのはどういう背景ですか?

 毎日新聞は1977(昭和52)年に“新旧分離”という事実上の倒産危機を迎えますが、この中で関連会社でもあったTBS(東京放送)の保有株の売却などもあり、関係が薄くなっていきます。当時、毎日新聞としても総合メディア媒体として、テレビ放送局と関係を持つことは悲願でした。だけど当時、TBSの株は高くなり、とても買い戻せない。

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メガポート放送開局の発表(2000年11月)角川会長(左)と竹内社長

 このころの総合メディア事業担当局長は取締役の竹内宏二さん。長くその職にありワープロ、パソコンの時代を潜り抜け、業界にも顔が広く、毎日のメディア行政については、社内的に「竹内が言うのなら間違いないだろう」という感じがあったと思います。ぼくより一年先輩です。

 そして「メガポート放送」の初代社長になることが決まっていました。かれのリーダーシップで30億円の資本金を集めたわけで、ナンバー2の常勤専務を毎日新聞から出すことになった訳です。そこで「佐々木は編集も長くやっていたし、広告局局長もやっていて適任」だと思ったんでしょうね。この人は吉田茂の実家である高知県宿毛市の「竹内家」にルーツを持つ人で、新聞業界のメディア関係者の間では知らない人はいないくらいという、ガッツのある人でしたね。

Q.取締役寸前に子会社への転身、もしかして不本意ではなかったですか?

 基本的に言われた人事は不満を言わないというのが、ぼくのポリシーでもありましたからね。そこは“昭和のサラリーマン”だね(笑)。毎日新聞の社長からメガポート放送に行ってくれと言われた時、即座に受けました。「将来、上場できるように頑張ってくれ!」というので‐‐‐。

Q.エッ!上場ですかか、本気だったんですか?

 名古屋本社のお別れの社員総会で「いずれこの会社を上場させて、“毎日新聞の役に立つメディア”にしたいと大風呂敷を広げた挨拶をしたことを記憶しています。まあ、バックには毎日新聞がつき、それに国の免許事業という太鼓判がありますから大丈夫―ということだったと思います。

 まさかそれが5年間でポシャルとは思いませんでしたね。ぼくは創業から閉店まで5年間いたことになります。でも楽しかったですよ。(以下略)