元気で〜す

2025年3月14日

私が写真記者になったのは…

 新入会員です、よろしくお願い致します。米田堅持、55歳。これは毎友会入会の挨拶(毎友会HPトピックス2024年12月5日付)だが、今朝Facebookに、カメラの写真を添えて、こんなことを書いていた。

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 新聞社の写真記者には大きく分けて3種類いると言われます。

 ① 写真好きが高じて報道カメラマンを志望したタイプ

 ② ジャーナリスト志望で、写真を通して伝えたいタイプ

 ③ カメラなどの機械が好きで、カメラマンになろうと思ったタイプ

 私の志望動機は③+①で、現在は②もあるという感じです。

 写真は学生時代から、しばらく使っていたカメラの一つで、今となってはこんな趣味性の強いカメラで良く写真の学校を卒業したもんだと感じます。

 輸入カメラ専門店で長くアルバイトをし、銀座松屋や新宿伊勢丹の中古市の店頭に立ったこともあります(家内は松屋のレジにいたときに出会いました)。

 今でこそ最新装備バリバリの船上カメラマンのイメージですが、もともとはライカやローライ、旧型ニコンなどを集めるのが好きなマニアでした。そのせいか、ソニーのミラーレスを買ったらマウントアダプターをいくつも買い込んでしまい、古い機材は減らなくなりました。

 かつて写真部は職人の世界だった。その昔は、ポン焚きといって、フラッシュにあたるマグネシウムを焚く助手がカメラマンとともに行動した。

 暗室作業も大変だった。現像液・定着液づくりからやらねばならなかった。とりわけ定着液「ハイポ」(チオ硫酸ナトリウム)づくりに苦労したようだ。

 米田さんは、日大芸術学部写真学科を卒業して92年に入社した。すでに自動現像機が入っていて、その苦労はほとんど経験していないと思う。

 今、デジタルの時代。現場で撮影された写真が即写真部デスクに送られ、紙面化される。

 「何をどう撮るか」。カメラマンに求められるものは、いつの時代も変わっていない。

(堤  哲)